余白をつくる

落合 実は今日、お話をしたいなと思うことがあって。

長田 なんでしょう。

落合 僕、事前に長田さんと松坂桃李さんの対談記事を読ませていただいて、共感する部分があったんですよ。「読み手にゆだねる」「説明しきらない」というところです。あの感覚が、僕にはすごくよくわかって……。

※『まろやかな炎』長田真作(303BOOKS、2022年):長田真作さんが俳優・松坂桃李さんからインスピレーションを受けて描いた絵本。本書刊行にあたって、長田さんと松坂さんの対談が行われました。詳しくは出版社ホームページ https://303books.jp/maroyaka/ に掲載されています。

長田さんは松坂さんとの対談中、作品の捉え方は読者にゆだねたいという話をしていました。

落合 僕は書く仕事をずっとやってきていて、今も時々、ライティングの個人レッスンをやっているんですよ。そこでは受講者に対して、つねに「自分の言いたいことや、思っていることを言い切らない、書き切らないように」と言っているんですね。行間とか余白をいかに作っていくかに意識を向けてもらうようにしています。10人が読んだら10通りの解釈ができる文章が良い文章ではないかと、僕は思っているんです。「あ、こんな読み方ができる、こんな読み方もある」ってもののほうが、たぶん繰り返し読んでもらえるし、時代を超えて読んでもらえるんじゃないか、と。長田さんと松坂さんの対談では、それに近いことを話されているなと思ったので、すごく共感したんですよ。

長田 ありがとうございます。そうですね。あの作品に限らず、絵本って今まさに仰った「行間」の読み方が、読者に相当ゆだねられているものだと思うんですよ。小説にもいろんな行間があるけど、なんせこっちには “絵” がある。絵というのは一人ひとりの見方があるだけじゃなくて、日によって見え方が違うとも言える気がするんです。つまり10通りどころか、100通りくらいの見方ができる可能性がある。

 絵本って、その気楽さが良いんですよ。

落合 気楽、ですか。

長田 絵は見え方が限定されない。人によってどう見えたっていい。それって気楽なことだと思います。

 僕の絵本の場合は、編集者と「これってこういう話ですよね」って理屈をこねて作っているわけじゃないんですよね。なるだけイメージに身をまかせて、どれだけ作品の世界が広がっていくかを重要視しています。僕の場合、それができるのは“絵”。物語や展開も大事ですが、理屈を超えるためには “絵” がまずのびのびと広がってくれないと困るわけです。それこそ、僕が思っているその作品の魅力と、編集者が感じている魅力って、結構違うんですよ。だからお互い「そこもいいんじゃないですか」みたいな感じで、新たな発見をしつつ盛り上がって出版してます。

落合 つまり絵本のなかに、いろんな解釈ができる余地があるってことですよね。

長田 そうです。しかも絵本って、僕と編集者だけじゃなくて、デザイナーさんや印刷会社の方とか、いろんな人が関わって出来上がる特殊なものです。それがやっぱり出版のおもしろさなんですよね。で、「じゃあ読者の人たちはどういう解釈をするんだろう」ってなるんですよ。さっきスポーツと感動の話がありましたけど、僕は「自分の作品を読んで、こんなふうに思ってもらいたい」ってものが一切ないですね。だから「(読者からの)おたより待ってまーす!」みたいな気持ちなんですよね。

落合 ハハハハハ!

長田 そこはまさに、気楽に待ってます。こういう答えが返ってきてほしいなっていうのがないんですから。こっちが予想もしなかった「おたより」が来るのを楽しみにしてるんですよ。それが絵本をやめられない理由かなー。だから松坂桃李君との対談で言った「ゆだねる」という言葉は、僕としては至極当然な気持ちなんですよね。

落合 なるほど。『思考の整理学』で有名な外山滋比古さんの書いた『異本論』という書籍がありまして。時代によって読み方、捉え方が異なっている、長い時代を生きながらえてきたテキストについて、「異本」という言葉を用いながら論述しているものなんですが、それはつまり古典のことなんですね。平安時代に書かれた『源氏物語』とかって、ありますよね。これは今でも読まれています。時代の価値観、社会状況が変わっても読まれるもの、つまりいろんな読み方ができる本が、長く読み継がれている本なんだって書いてあって。それってすごいなって、僕は思うんですよね。

 なのでさっき言ったように、あんまり書き切らない、余白を残す文章って、ずっと読み継がれるというか、語り継がれるものなのかなと考えています。まあ実際に書くとなると、なかなか難しいんですけどね。

お店の2階から見える風景

長田 あと読者同士で、「読書会」って言ったら硬いですけど……、ああだこうだ意見交換できる場がどんどん増えるといいですよね。そこで語られるものって、世の中に溢れている情報とは違って、非常に個人的なものですよ。参加する人たちは、自分の人生をわざわざ多くの言葉で語らなくても、「私はこの作品からこういうものを感じた」って言うことで、何かが見えてくる。そうすると、「ああ、こんな人もいるんだ」とか「こんな見え方があるんだ」というのがわかってきますよね。そういう場って結構おもしろいんじゃないかな。できればその中心に、僕の作品があるといいですね(笑)。

 いろんな言葉が交わされるような作品って、たぶん決まったテーマがないものなんじゃないかな。僕、結構昔から、テーマって言葉には違和感があったのかもしれません。

制約をかける

落合 僕は文章を書くうえでは、自分に対していかに制限や制約をかけるか考えているんですよ。もし「何を書いてもいいですよ、何文字書いてもいいですよ、できたら持ってきてください、締切はありません」みたいな状態にされたら、僕、何も書けないです。やっぱりテーマと文字数、締切を決めることによって、初めて書き出せるというか……。それからほかにかける制約としては、「形容詞、副詞は使わない」というものもあります。僕、自由が一番怖いんですよ。「自由です」って言われた瞬間に、何もできなくなっちゃいます。さっき言ったライティングのレッスンでは、そういう話もしてますね。

長田 へえー!

落合 ほかにも月に1回、講師の方をお呼びして、ここで短歌教室をやっているんですが、短歌だって自分の感じたものを五七五七七という、ある意味制約のなかで伝えるものです。こういう「型」に嵌めることでできることって、たぶんあるんじゃないかと思うんですね。長田さんも「自由」にされるのが一番困りませんか。

長田 そうでもないですね。

 僕は5、6年前から絵本を描いてますけど、日々すごい努力研鑽をして、湧き上がってくるものを表現するだとか、表現しないと自分を保てないとか……そういうものではないんですよね。僕にできることってなんなのだろうと考えたときに、人よりもちょっと絵が描けるかなって思った、その程度のきっかけで絵本を描き始めたんです。どんな作品でも、なーんか気楽にやってるんですよね。

落合 ハハハ。

長田 さっきも言ったように僕の作品に関しては、テーマというのはそれこそ読者が最後に設定してくれるものだって思ってます。もし自分で設定しちゃったら「読者にゆだねる」という僕の精神と肉離れを起こします。

落合 肉離れ(笑)。

長田 そういえば高校生のとき、小論文の添削試験があって、自分ではすごく良い文章がかけたと思ったことがあったんですけどね。採点した人からは「これは小論文ではありません」って赤字を入れられたんですよね(笑)。あのときの僕は、テーマに沿って相手に伝わることを書いたつもりなのに、お前の言っていることはわからない、じゃないですけど、小論文ではないと言われた。あれはショックだったんですよね。

 文章は文章でも、小論文だと僕には向かないなあと、あのとき直感的に思ったんです。僕なりの人に伝えるアプローチとして、自分には “絵本”が合っていると気づけて良かったです。

落合 そうですか(笑)。でも僕も別に、自分の思っていることをそのままストレートに伝えようとは、まったく思ってないんです。

 さっき「制約をかける」という話をしましたよね。ライティングのレッスンではいろんなお題があって、たとえば最近だと「切ない」とか「切なさ」というものをテーマにして書いてもらったんですが、僕はそのとき「『切ない』とか『切なさ』という言葉を使わないで、読んだ人が『ああ切ないな』と思うような文章を書いてください」と言っているんですね。ほかにも「好きな人に対して『好き』という言葉を使わないで、その気持ちをいかにして伝えるか。そういう文章を書いてくださいね」みたいなことを言う。それも制約なんですよね、実は。ある意味「禁じ手」を課して、僕は文章を書こうとはしてるんですよ。

長田 なるほど。そう考えると僕も実は、ある時代性を感じさせるものって、絵に絶対登場させてないんですよ。携帯電話とかね。

落合 ああ。作品が古くなっちゃいますもんね、それが変わることによって。

長田 制約をかけるというのは、記者時代のときに身につけたんですか。

落合 そうですね。少しずつ変化してきました。

長田真作×落合博(3)へ続く